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同志少女よ、敵を撃て 感想と考察5 『敵』ってなんだ? 敵を撃ったセラフィマと敵などいなかったターニャ

同志少女アイキャッチ

逢坂冬馬氏の『同志少女よ、敵を撃て』の感想と考察その5。今回でようやく最後。
ラストとなる今回は、狙撃手のセラフィマと看護師のターニャがメイン。(セラフィマは過去考察と多少内容かぶるのはカンベン)
かたや狙撃手、かたや看護師と、立場や役割が違うのに『もしかするとあったかもしれないもう一人の自分』として最後のほうで明かされた2人でした。

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前回の考察はコチラ

同志少女よ、敵を撃て 感想と考察4 与えたイリーナと搾取されたリュドミラ

  • 個人の感想と考察です
  • 思いっきりネタバレしてますんで『ネタバレバッチコーイ!』な方のみどうぞ
  • 軽く進撃の巨人が混じっちゃうのは勘弁してやってください

『敵』を撃った狙撃手セラフィマ

この子は進撃で言うところのガビみたいな子だった。序盤は怒りや憎しみで頑固なとこが。シャルロッタともよく衝突してたし。

進撃の巨人109話[ 諫山創 ]

進撃の巨人109話[ 諫山創 ]

中盤でサンドラやユリアン達との出会いや別れ、理不尽な目に遭う女性達の姿を目の当たりにしたことで、その頑固さがぐらつき、終盤ではイリーナやリュドミラ達先人の導きとシャルロッタをはじめとする仲間達のおかげで『正解』へとたどり着いた。
……こうして見ると、普通の人が何年もかけてたどり着くはずの場所に、ガビちゃんは超特急・進撃フルコースで速攻たどりついちゃったんだな……

セラフィマは口では『女性を守るため』と言いつつ、その根底には『恨みを晴らしたい』という『自分の欲望』のために戦っていた。
でも最後はイリーナを許し、文字通り『女性を守る』ためにミハイルを撃ち、仇だったはずのハンスに花持たせてあげたりと『復讐心』が消えた。
戦後も、ドイツ語の翻訳の仕事で細々と生計立てたりと、かつて夢見ていた外交官とまではいかなくても、ドイツとの仲立ちになっている。

それはセラフィマが勝手にそうなったのでもなければ『特別な人』だったからでもなく、敵国の男だろうと愛したサンドラだったり、我が身を犠牲にしてでも子供を守ろうとしたヤーナだったり、『自分の未来』について考えるシャルロッタだったり、周囲に『自分の信念』を持って行動してる人達がいて、その人達に学び、考え続けたから。

『復讐』は『悪』か?

『復讐』のために狙撃手になったセラフィマだけど。
私は『復讐』そのものは、別に『悪いこと』じゃないと思うんだよね。怒り狂ったのは『それだけ大事に想ってた』ってことだし、『やられっぱなし』じゃナメられて、対等に扱われることはないんだから。

本当に悪いのは『復讐こそが我が人生』になって『いつまで経っても許すことが出来ない状況』だと思う。

『許すこと』が『いけないこと』かのように自分を追い込んで、ひたすら『復讐のために生きる』って、それもう『誰のため』の復讐?
そこまで行っちゃった人は、どっかの獣の巨人さんのように『死こそ救い!』になっちゃって、その自覚があったリュドミラは戦場で死ねなかったことを『運が悪かった』と言った。
きっと彼女が許せなかったのは『憎い仇』ではなく『戦場で死ねなかった自分』とか『こんな生き方しか出来なかった自分』とか、そういうのだったんだろうね……たとえるなら、『使命』を放棄して地下室に行っちゃったルートのエルヴィンみたいな。(『夢』は果たせても一生自分を許せず鬱々と生きることになるんやろな……)

進撃の巨人76話[ 諫山創 ]

進撃の巨人76話[ 諫山創 ]

どんなに敵を撃ったって『自分自身』を許せない限り『復讐』は終わらないんだろうと思う。
許せない以上、復讐に死ぬしかない。

それって亡くなった人が生き残った人に望んでいたであろう『自分の幸せ』を犠牲にしてるだけでなく、『復讐という名の生きがい』のために『亡くなった人の存在』を利用してるとさえ言える。

でもセラフィマが『復讐鬼』にならずに済んだのは、仲間の存在もそうだけど『女性』の存在も大きかったと思う。
サンドラもそうだったし、同じドイツ人にだまされて売春婦をやらされてたアデレもそうだった。
彼女達の存在が『自分の正しさ』を疑わせ、国籍関係なしに『敵とは何か』をセラフィマに考えさせた。進撃だと、カヤとブラウス一家に出会って、ようやく『悪魔とは何か』を考え出したガビみたいなもん。

進撃の巨人124話[ 諫山創 ]

進撃の巨人124話[ 諫山創 ]

逆を言えば、その『出会い』がなければ、セラフィマは『本当に撃つべき敵』を見誤ったまま、戦場で憎しみを抱いたまま死ぬか、抜け殻の戦後を過ごすかになった。そういう意味では『女性に救われた』とも言える。
そうして考え続けたセラフィマは、イリーナを理解し『許す』ことで、『復讐』にけじめをつけ、新しい人生を歩んだ。

一方『セラフィマの怒り』をまったく理解する気も『償う気』もないまま『許してくれ』なんて言ったのがハンスだった。そら口だけの謝罪で許されるわけがない。

そんなハンスだけど、最後の最後でセラフィマを理解した。
ハンスは『サンドラが●された』と思ったことで『愛する者を奪われる怒り』を知り、その後で『お前のようにはならない』というセラフィマの宣言が『本物』と目の前で証明されたことで、セラフィマへの誤解が解け、理解した。
そして同時に『自分の罪』も理解し、その償いかのように、セラフィマの身代わりになった。

セラフィマも、ハンスを撃った時点で憎むのはやめていたと思う。だからサンドラの安否を伝えた。
ノートの指輪を見つけた時、ハンスがまったく怒らなければ、彼にとってサンドラは『どうでもいい女』だった。でもそうじゃなかったからハンスは怒り狂った。
『大事なものを奪われて復讐に燃えること』を予想してノートに指輪を仕込んだんなら、セラフィマはサンドラの『いい男だった』の証言を信じた上で、『相手は同じ人間だ』とちゃんと理解してたってことなんだろうなぁ……

セラフィマの『復讐』の終わり

さて、セラフィマの復讐の終わりを見て思ったのは、『復讐』って『果たしたら終了』するのではなく『許せたら終了』するものなんだろうと思う。許す対象が『敵』だろうと『自分自身』だろうと。

そして『許す』にも『許される』にも『相手への理解』が必要。そもそも互いを『理解』しない限り、許す気にもならないから。
……まあ、理解しようとすればするほど理解不能すぎ許すどころか怒り倍増しかせんかった進撃のヒモ男もいるけど……(むしろ理解しなかったほうがよかったのでは?)

もし『許す』ことが出来なければ、セラフィマの『復讐』は終わらなかった。次の『復讐の対象』を探すだけ。
仮にセラフィマがうっかりしてハンスに負けてた場合も、今度はハンスが、いもしない『サンドラの仇』を討つために『新たな復讐鬼』になったんだろうね。まさに復讐の連鎖。
そんな具合に『復讐の終わり』が迎えられないまま、強制的に戦場から降りることになり、むなしい晩年になったのがリュドミラだった。だから彼女は、『自分のようになるな』とセラフィマに願った。

セラフィマの戦いって、戦いを通じて他者のことを理解し、『許せる自分になる』ための試練だったのかもしれない。

誰も撃たなかった看護師ターニャ

ターニャは、進撃で言うところの104期ユミルとハンジさんを足して2で割ったような感じかな。104期ユミルよりは平等だし、ハンジさんのように勇猛果敢に戦うわけでもなし。

126話

進撃の巨人126話[ 諫山創 ]

セラフィマ達狙撃小隊のメンバーは最終的にみんな独身のようだったけど、ターニャは戦後、看護師としてバリバリ働きながらヤーナが助けたドイツ人の少年を養子にし、2回結婚して2回離婚するとか、肝っ玉母ちゃんかな?
ターニャって一見『普通の人』のようでいて、その『普通』が一番困難だよね……

さて、ターニャはセラフィマ達とは所属も違うし立場も違うから、どっちかというとセラフィマ達から離れた脇役ポジション。
そんなターニャは、ラストでセラフィマとは『まったく同じ境遇』だったと明かされるんだけど、『進んだ道』が真逆だったことも明かされるんですよね。

例によって例のごとく、イリーナに『戦うのか、死ぬのか』二択を突きつけられ、ところがターニャはこの二択を三択にした。
これ、イリーナにとっても衝撃だったんじゃないかなぁ……『この二種類しかない』と思っていたのがイリーナだったから。だからめっちゃ驚いて『敵が皆●しに来てもか?』なんて聞き返したんじゃねーの?

すべてを奪われ、それでもなお、憎しみを糧にすることなく『人を助ける』を選ぶって、一番難しいことだよね……『二択』と思い込んでいたイリーナとセラフィマこそが思考停止していたと言える。

かといって『戦うこと』を否定することもしなかった。戦わなければ滅ぼされるのも事実だから。

ターニャ自身もそのことを多少は気にしてたようではあったけど、しかしターニャは『復讐』に逃げず、誰も傷つけず、敵も味方も関係なしに救った。それがターニャの『戦い』だった。

それに『助けた命』にもちゃんと責任持ってたよなぁ……『救った気』になって元いた危険地帯に放り出すなんて無責任なことせず、家族がいないヨハンくんを正式に養子に迎えて育てるとか、なかなか出来るもんじゃないだろ……

『復讐』とは誰のため?発生した代償

『復讐』って『誰のため』にするのかというと、どんなに理由を並べたって『自分のため』でしかない。『死んだ誰かの無念を晴らす』と言えば聞こえは良いけど、『自分がスッキリしたい』という『欲望』のために戦っている。

進撃の巨人112話[ 諫山創 ]

進撃の巨人112話[ 諫山創 ]

亡くなった人にしてみりゃあ、自分をダシに人を撃つことを肯定化されてるみたいなもん。
そこまでして『復讐』を果たしたところで、自分がスッキリして喜ぶことは出来ても、『褒めてくれる家族』はどこにもおらんのやで……

たしかに『復讐心』はセラフィマに『生きる気力』を与えたけど、同時にセラフィマの命を奪おうとする諸刃の剣だった。作中でも、敵を撃つことに夢中になって、すぐ横を銃弾がかすめたりと、かなりきわどいシーンもあったし。
そんな具合に、『復讐心』はセラフィマを『身勝手』にした。

ハンスを撃つため『身勝手』したセラフィマを、イリーナは『軍事行動だ』『結果として犠牲は減った』とフォローしたけど、たまたま結果オーライになっただけであって、『身勝手』したことに変わりはない。
『身勝手』がなぜいけないのかと言うと『代償』がついてくるから。

たとえば『身勝手の代償』が『自分自身』に返ってきたのがアヤだった。
これだって、味方戦車が間に合ってくれたおかげでたまたまアヤ1人で済んだだけで、そうじゃなきゃ仲間達も『代償』のとばっちりを喰らってた。
どうやら『代償』というやつは『自分1人だけ』で済むとは限らないし、『関係者』や『自分自身に返ってくる』とも限らないものらしい。

セラフィマの『身勝手』の代償は、『セラフィマの復讐』とは無関係のオリガだった。

セラフィマの『復讐したい』という『欲望』が、オリガの自由と夢を奪った。
もちろんオリガはオリガの責任でそうしたのであって、誰も責めたりしないだろうけど、セラフィマにとっては『自分の身勝手』に巻き込んで犠牲にしちゃったようなもんだよね……ガビにとってのファルコみたいな。

進撃の巨人118話[ 諫山創 ]

進撃の巨人118話[ 諫山創 ]

そして『復讐』はセラフィマの『夢』も奪った。
元々外交官になることがセラフィマの夢だったけど、『戦争』によって壊された。
でもこの『夢』って、本当に『戦争』によって壊されたものなの?

セラフィマの『夢』を奪ったもの

たしかに戦争によって外交官になるどころじゃなくなったのは事実だけど、『夢』を抱き続けることは出来たはず……たとえばオリガは『女優になる』という夢を持っていたけど、別に捨てたわけでもなかった。シャルロッタに至っては、戦後『誇り高い労働者』としてバリバリ働いた。
そういう意味では『夢』を奪ったのは『戦争』ではなくセラフィマ自身の『復讐心』。

もしターニャがセラフィマと同じく『あいつら許さない。復讐したる!』って子だったら、ターニャは家族だけでなく『看護師になる』という夢まで奪われたことになる。
しかしターニャは戦争に屈することなく、自分の夢を守り抜いた。戦争は『ターニャの夢』を奪うことに失敗した。

一方セラフィマは『復讐』のために戦うことを選択した。その瞬間、『外交官になる』という夢をまんまと戦争に奪われ、『自分の復讐心に自分を支配されたあぶなっかしい子』になった。

その『復讐』も、『自分のため』にやってることだから、それを成就させるためなら『身勝手』になる。その『身勝手』の代償をオリガに支払わせた。
その『ツケ』を支払うために、セラフィマはハンスを撃ち、ミハイルを撃った。

進撃の巨人88話[ 諫山創 ]

進撃の巨人88話[ 諫山創 ]

この辺のセラフィマはエレンに似てるかな。前半エレンは巨人への憎しみしかなくそのためだけに戦い、後半は『女のご厚意』に甘えまくりの身勝手なヒモ男になった。

そして同時にミカサにも似てる。『エレンの身勝手の代償』は仲間達が支払い、そのツケをエレンの代わりにミカサが支払った。(※なんでもかんでも女に支払わせるのがヒモ男だが、生死を女に握られているのもまたヒモ男なり

最後まで『自由』だったのは、どんなに打ちのめされようと『復讐』に走らず、『誰か』のために責任を持って戦い続けた者たちだった。

『復讐』大好き戦争くん

『復讐』って誰にとって都合がいいのかっていうと、『戦争』にとって都合がいいんだと思う。
擬人化すればわかりやすいと思うんだけど、『戦争くん』は人と人が傷つけ合うのを見るのが大好きな悪趣味なヤツなんですよ。
だから『復讐』のため兵士になって誰かを撃てば、撃たれた誰かが『復讐』のため兵士になって誰かを撃ち、そうして撃たれた誰かがまた『復讐』のため誰かを撃ち、人々が泥沼にハマればハマるほど、戦う人が増えて戦争くんを大喜びさせる。

戦争くんにとって『都合が悪い子』は、誰も憎まず、誰も傷つけない人。

セラフィマは夢を捨て、復讐のため人を撃った。まんまと戦争くんの『思うつぼ』にハマって、戦争くんの『とっても(都合の)いい子』になった。

進撃の巨人91話[ 諫山創 ]

進撃の巨人91話[ 諫山創 ]

ターニャは戦争くんに家族を奪われようと、誰も傷つけず、それどころか夢を叶えて人を助け続けた。戦争くんにとって『とっても(都合の)悪い子』だった。

セラフィマにとって幸運だったのは仲間に恵まれたこと。『復讐』しかなかったリュドミラは、戦争くんの手のひらで散々踊らされた末に、すべてを奪われ放り出された。
セラフィマも途中までは戦争くんの手のひらで踊ってたけど、戦争くんは阿波踊り踊れって言ってんのに、ドジョウすくい踊ったりリンボーダンス踊ったり、演目は自分の意志で選びだした。『自分は何のために戦うのか』を考え続けていたから。

『人と人が憎み合い、復讐し合う姿』を見たかった戦争くんを大いに喜ばせたのが『敵への復讐』に燃えて人を撃ちまくった人達だったけど、『イカした人生』を送って『戦争くんへの復讐』を果たしたのがターニャだったり、『誰かのため』に戦ったシャルロッタやヤーナだった。

進撃の巨人40話[ 諫山創 ]

進撃の巨人40話[ 諫山創 ]

セラフィマを始め『敵への復讐』のために戦いに身を投じた人達は、本当に『復讐』すべき相手を読み違えていたのかもしれない。

『敵』って何だ?

そもそも『敵』って、突然、なんもないところから『自分敵っス!』と湧いてくるんじゃなくて、『自ら作り出すもの』なんだろうと思う。
『生きる』のに必要だったからだったり、単純に『自分の欲望』のためだったり『我が身の保身』のためだったり。

『誰か』が『誰か』を『敵』と認識した瞬間、『敵』は生まれる。

逆を言えば、たとえ攻撃されようと宣戦布告されようと、相手を『敵』と認識しない限り、この世に『敵』は存在しない。

進撃の巨人123話[ 諫山創 ]

進撃の巨人123話[ 諫山創 ]

セラフィマはすべてを失い、抜け殻になった。
その時のセラフィマには『敵』なんていなかった。抜け殻で『死にたい』と思ってたから。

進撃の巨人130話[ 諫山創 ]

進撃の巨人130話[ 諫山創 ]

この抜け殻状態、レベリオ壊滅を知って何もかもどうでもよくなっちゃったアニみたいだな……

セラフィマに『敵』が現れたのは、イリーナに『戦うか、死ぬか』と問い詰められてから。
セラフィマが生きるには『敵』が必要だった。『敵への怒り』を『生きるエネルギー』に変換でもしなきゃ、やってらんなかったから。

『戦争』にもっとも必要なのは『お金』でも『武器』でも『兵』でもなく『敵』
それまで『人』だったものをみんなで『敵』と呼ぶことで、民を戦争へと導いた。『人』を●すのは『悪いこと』だけど、『敵』になったとたん●すことが『いいこと』になるから。
『敵』をやっつける『善行』のためなら、民は我慢もするしお金も差しだすし武器を手に戦いに行ったりもする。

セラフィマは自分が生きるために『敵』を必要としたけど、ターニャは違った。ターニャはたとえ家族が奪われようと、自分が生きるために『敵』を用意する必要なんてなかった。彼女に必要だったのは『人』であり『命』だった。
『人を救うこと』が彼女の使命でありそのために生きることをすでに決めていたから。

それでもあえて『敵』と呼ぶものがあるとするなら、それは所属も国籍も関係なく『人を傷つける行為』であって『人そのもの』ではない。
だから彼女は「たとえヒトラーであっても治療するさ」と言った。身を挺してヨハン少年を救ったヤーナと同じ。

セラフィマも、最後はターニャの境地にはたどり着いてるんだよね。ミハイルを撃った時も、ミハイルが『敵』だったから撃ったのではなく、女性を暴行しようとする『彼の行為』を阻止するために撃った。結果、ミハイルは『暴行魔』ではなく『心優しい幼なじみ』として逝くことが出来た。

『手段』が違うだけで、『人を救う』という目的は2人とも同じ。ただ『その境地』にたどり着くのにかかった時間が違っただけ。

敵に縛られた者と敵から解放された者

進撃の巨人でも『敵』を用意することで『戦え、戦え』と人々を戦いへと誘った。
『敵』がいてくれたほうが都合がいいという『誰か』がいたから。
『誰か』にとって都合のいい『何か』を、みんなで『敵』と呼んだり『味方』と呼んだりした。たとえそれが巨人であろうとも。

そして大人達から『あいつらは敵だから憎みましょう』と教えられた子供達は、別に自分が相手になんかされたわけでもないのに敵視し、憎むようになった。その象徴がガビとカヤ。

進撃の巨人109話[ 諫山創 ]

進撃の巨人109話[ 諫山創 ]

『子供を使って恨みを晴らす』『大人の罪を子供に背負わす』って、大人として一番やったらアカンことだよね……『同志少女』でも『大きくなったら銃の撃ち方を教えて』と言ったニコライ少年に、ヤーナが『あんたらは平和な時代を生きろ』と諭してたけど、それこそが『大人』。

世界が『島を滅ぼしましょう』と言った時も、エレンがフルパワー地鳴らしを起こした時も、みんな『敵』をやっつけることは『とってもいいこと』だと信じて疑わなかった。そこに『罪』なんてあるはずがない。
彼らはみんなで『誰か』にとっての『とっても(都合の)いい子』になった。

進撃の巨人126話[ 諫山創 ]

進撃の巨人126話[ 諫山創 ]

自分達が『罪のない超いい人』になるために『敵』を必要とした彼らは、その『身勝手の代償』として『何か』に支配された『不自由な家畜』となった。

一方ハンジさんは、世界の行為もエレンの行為もとんでもない『大罪』だと思っていた。
彼女は『敵』なんて存在しないことを知っていたから。だからその『罪』を背負い、止めに行った。

進撃の巨人127話[ 諫山創 ]

進撃の巨人127話[ 諫山創 ]

何者にも縛られない彼女は、最高に自由だった。

ガビも『悪魔なんていない』と気づいた瞬間、この世から『敵』がいなくなり『己の罪』を自覚した。

進撃の巨人118話[ 諫山創 ]

進撃の巨人118話[ 諫山創 ]

『罪』を背負ったその瞬間、ガビは『敵』から解放され『自由』になった。

『敵』を滅ぼすため開戦したというのに、一周回ってむしろ『敵の存在』をなによりも『肯定』してるのが『戦争』だとか、滑稽だとは思わんかねヒモーガーくん?(嫌味)

セラフィマは生きるために『敵』を必要としたけど、それってつまり『敵に依存してる』ってことになる。
『敵』などいなかったターニャは、最初から自由だった。だから敵味方関係なしに、自分の知識と技術を駆使して人を救った。
『復讐の奴隷』と化していたセラフィマは、最後『許す』ことで『復讐』から解放され、彼女の『戦争』は幕を閉じた。

結局、『敵』を必要とする限り捕らわれの身であり、自由にはなれないってことなんだろうなぁ……

* * *

それでは『同志少女よ、敵を撃て』の感想と考察はここまで。
おもろかったら下にあるイイネボタンを押していただけると元気と勇気とやる気が湧いてきます(*´ω`*)ノ

前回の考察はコチラ

同志少女よ、敵を撃て 感想と考察4 与えたイリーナと搾取されたリュドミラ

  • 金眼銀眼 より:

    久し振りに書き込みます。セラフィマは自分の原点を手に入れ、一番憎んでいたイリーナを許し、生かす事で復讐という名の生き甲斐を得て戦後を生き抜いて行く。あのままイリーナが極東に行ったら樺太からの引き揚げ時の戦闘に加わったんだろうと想像しました。北海道は何と言ってもソ連と国境を接していましたから(今はロシアなので過去形)。スターリングラードのマクシム隊長について考えていました。彼は、ユリアンが生きていたら家を失っても生きる意欲が持てたのでは無いかと。戦いの中から戻る日常に居た彼の家族は亡くなり、思い出の家を基地として戦う。戦う中で家族のような繋がりができ、特に息子のように思っていたユリアンを慈しんでいたと感じました。彼は、リュドミラが得られなかった死に時と死に場所を得た人。進撃のキース教官やマガト元帥達も、納得のできる死に場所を得られた人と感じます。お互いに敵と思っていた人達と手を組んで未来を切り開こうとして運命に挑んで行く、未来を託せる若者達を見出せた。マクシム隊長にとって、未来を託せたのが家族がいるフョードルとイリーナ達女性の狙撃部隊。ユリアンと共に彼女らを送り出せた事が、マガト達がアズマビト家の船を送り出す事と重なりました。
    敵と味方の認識、イリーナはセラフィマに生きる為に「怒り=戦う」というエネルギーを持たせた。実際に母を撃ったハンス、村を焼いたイリーナ達赤軍を憎むように仕向けた。戦争のせいとして、目に見える敵をイリーナはセラフィマに与えた。エレンはミカサに、敵を殺さなければ自分が殺されるからと、敵を殺すように仕向け、また、両親を亡くしたミカサに居場所を提供したのもエレン。実際は両親だけれど、ミカサにエレンを失くしたら居場所も無くなると擦り込みをした感じがします。巨人の力を得た始祖ユミルが、人と違う自分を受け入れてくれたと初代フリッツ王に条件付きの愛情を持ったのに対比できます。進撃の巨人は、ミカサが運命の人のエレンに対して見返り付きの欲しがる愛情ではなく、自分が相手の一番の望みを叶える無償の愛を与える物語と解釈しています。でも、「同志少女よ敵を撃て」の登場人物にミカサのような人物像が見出せません。エレンのような行動や考え方をする人物は造形されているのに、ミカサのような特別な力を持つ人物はいない。アルミンのように考えて、交渉する人も見出せない。アルミンが歳を重ねて行ったら、リュドミラになるかも知れないけれど、進撃の世界での彼ではまだ力不足に感じます。戦争という敵を正しく捉えていたのは、生き死に二択を「人を生かす」三択にしたターニャだと思います。争って、お互いに憎み合い、「死んでいってね」と戦争が人を煽っている中で、戦うのは仕方ないけれど「それでも私は命を救うんだ」と、自分の夢を諦めず、叶えて行くターニャ。自分の原点を見失わず生きて行く事は、愛する夫の子供を生み育てるという望みを叶えるサンドラに通じるものだと感じました。理解する事は、人を自由にする。セラフィマのと言うかイリーナもですね、自由になるまでの成長物語だと言うのが感想です。

    • とわこ より:

      お久しぶりです!コメントありがとうございます!

      確かにマクシム隊長は、シャーディス教官とマガトさん的なポジションでしたね。『教え子達』という希望に未来を託し、『死に場所』を自ら選択した。
      それでも読者的には、生きて見届けて欲しかったなぁ……とも思ってしまう(;ω;)
      これは『どちらが正しい』とかではなく、『自分がそうしたいと思った』という、自分の心に従ったんだろうなぁ……ユリアン的には複雑な気分になるだろうけど、マクシム隊長的には悔いなき選択だったのでしょう。

      『同志少女』にエレンみたいな人はたくさんいたのに、ミカサのような人がいなかったのは、やはり『戦争』という『異常事態』では、人は身勝手にならざるを得なくなるのかもしれませんね。
      自分に余裕がなければ、『他者への思いやり』を維持するのは困難。余裕がないのに『思いやり』を維持できる人こそむしろ異常な人であり『特別』な人。
      ちょうど今、以前オススメいただいた『風と共に去りぬ』を読んでる最中なのですが、元々ワガママだったスカーレットが戦争で余裕を失い、ますます他者への思いやりを失っていくさまを見ていると、『戦争は人が人でなくなる』というのはまさにその通りなのでしょう……そういう意味では、セラフィマは一度は『人』をやめた人で、ターニャは最初から最後まで『人』であり続けた人だった。

      ん?そうなると『同志少女』は成長物語であると同時に『戦争のために人をやめた者達が人に戻るためのお話』だったのかも?
      ミハイルはセラフィマが撃ってくれたおかげで人に戻り、ハンスは死ぬ前に人に戻り、セラフィマはイリーナを理解し許したことで人に戻り、イリーナはセラフィマと共に生きることで人に戻った。
      『人をやめた先』にあったのは『なにかの奴隷』になることだった。だから人に戻ってからの彼女達は『自由』だったのでしょう。

      • 金眼銀眼 より:

        こんにちは。「戦争は人が人でなくなる」の文を読んで、思わず、「戦争は人を【ひとでなし】にする」と言う言葉が浮かびました。戦争に自分の敵愾心を捧げ、争う事の奴隷となる。自分の夢、本当にしたかった事が対価だったのでしょうか。そうだとするとオリガは自由な奴隷と言うか、女優という夢を秘密警察に属す事で実現させて、制約の中でやりたいことや出来ることをやった感があります。セラフィマが幼馴染のミハイルを撃って人として死なせた様に、ガビちゃんは巨人化したドークさん(ガビ本人は、ファルコを逃してくれた人とは知らなかったでしょうが)をライフルで仕留めた事で、子供を食べさせなかった、子供殺しをさせずに終わらせた。自分の因果を誰かが報いてくれてる様に、ファルコへの好意を返すことが出来たのかもと考えてしまいました。あの場面は、カヤにサシャを思い起こさせて二人のわだかまりをほぐさせた場面でしたが、この考察を読んで改めて読み返すと、これもアリかもと勝手に思ってしまいました。ガビが、ファルコの想いや島の悪魔を正面から受け止めて自分の思い込みを打ち破り、人となってからの行動なので、余計に感じました。人が一人だと間(あいだ)が無いので人間になれない。だから一人では人間になれない関係性の生き物だと思います。その関係性をどうやって作るのか、そこが難しいのですが、相手への敬意、思い遣り、自分への尊厳を意識する事で、依存する事の無い繋がりができるのではないかと感じているしだいです。

        • とわこ より:

          たしかに初期のガビちゃんは、『人は一人では人間になれない』を象徴するような子でしたね……もしあのままガビが変わることなく他者を否定し続けていれば、いずれひとりぼっちになって、文字通り『ひとでなし』になっていったのかも。『みんなが自分から離れていった』のではなく『自分がみんなを遠ざけたのだ』と気づかぬまま。
          そういう意味では、ガビを『人』にしたのは『自分以外の他人』であり、そして『過ち』を『過ち』と受け入れ、そこから逃げなかったガビの勇気だった。
          人としての弱さから逃げ出さず、人として戦うことを選んだからこそ人を救うことが出来るというのは、どんな物語でも共通していることなのかもしれません。

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